2012年1月26日木曜日

大きな視点での考え方


日本の宗教について紹介してくれと、フィンランドの社会の先生に言われて簡単なプレゼンを作成した。その際に改めて日本の宗教について考えてみた。

とある日本人の宗教についての調査に75%の日本人は「無宗教である」と答えたらしい。一方で別の統計では、神道と仏教に属する人が合計で2億人としている。つまり、日本人は統計上では2つの宗教に属している人が多いが、宗教的な行為は日常の習慣の中に根付いていて、意識としては宗教に属している人は少ない。たしかに、先祖代々やっているから、周りの人がやっているから、それを続けるという方が多いのではないか。洗礼のようなものがあるわけではなく、日常生活を送っていたら多くの人は2つの宗教に属すると数えられているのである。つまり宗教という属性に属しているという意識が極めて低い人が多い。(当然、日々の行動に起こしている方もいらっしゃるが、ここでは一般的な話をしたい。)

日本人という属性だって、生まれた時から日本人で、特に独立を勝ち取ったという意識も薄いし、宗教という属性も薄い。もしかすると、日本の人は大きなものに属するという考え方が薄いのかもしれない。大きなものに属するという考えが薄いとどうなるか。大きな視点から物事を考える力が弱くなり、自分たちの小グループの利益ばかりを考えるようになってしまうと私は考える。

フィンランドのことを考えてみたい。フィンランドの大人たちは非常に自分たちの国の話をしっかりとする。人口も多くないから、みんなで協力しないと国が運営できないことを知っている。(先日の大統領選の投票率は72.7%だ。)そんな大人たちが子供の頃、小さな時から独立記念日のお祝いをしっかりと見させられ、学校でも独立についての話をされる。そして、学校教育の中に宗教の時間があるように、宗教という属性も学ぶ。この教育が大きなものに属するという考え方を養い、自らを見つめ、他者を考えること、国や社会を考えるという精神につながっているのだと私は考える。

一方で、日本の子どもは子供の頃に何に属すると教わるか。それはクラスであり、クラブ活動が主ではないだろうか。非常に小さな規模の組織ではないか。その環境で育った日本人の大人たちが小さなグループ、小さな視点で互いに対立ばかりを続けて、建設的に前に進めていないのではないだろうか。「何かが少しでも違うと他者の批判ばかりするが、自ら行動することはないし、助けることもない。」、「自らの小さなグループの利益を守ることだけを考えて、業界全体、国としての利益など大きな利益を考えない。」などと、どう見ても大きな視点が欠けている大人の行動が目についてしまう。国としての方向を閉めるという事についても同じである。

この日本人の大きな視点で物を見るという力の弱さは、もしかすると小さな頃に大きな属性を教わらない影響なのかもしれないと考えてしまった。別に、愛国心を養えというわけではなくて、日本人ならば当然日本人として誇りを持つように教わるべきだと思う。その日本人という視点を子供たちに大人が伝えられるかによって、次の世代の動かす日本の方向が変わってくる気がしてならない。子どもたちを小さな属性の枠に押し込んでしまわないような教育をしたいものである。

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