夏休み中に読んだ橘 玲さん著(日本人)がグローバル化について非常に面白い視点で書いてありましたので、ここで紹介させて頂きます。
この本では、他にも日本人論について書いてあり、後日それもご紹介させて頂きます。非常に面白かったです。
この本では、結論として日本がグローバルスタンダードの国に生まれ変わることはものすごく難しいと主張されている。
なぜか、それは、日本の社会に他者がいないから。
日本がグローバルスタンダードの国になるためには、その前にまず、社会がグローバル空間に変わらなければならない。グローバル空間とは、包摂できない他者と共存せざるを得ない世界のことだ。
ところが、日本では他者はイエに包摂されるか、さもなくば排除される。この二者択一で社会の秩序が維持できる限りは、ローカルルールを変更する必要はない。他者とは、人種や宗教、文化や母語が異なる非日系日本人が「同じ人間として平等に扱え」と要求するのがグローバル空間である。現在のように政治や行政から会社、学校に至るまでほとんどの組織が日系日本人で構成制されている限りは、グローバルになる理由はどこにもない。
グローバルな社会、そしてそこで生きる考え方と言われたとき、アメリカが思い浮かぶ。
それは、彼らの国が移民によってつくられた人工的な社会であるから。
グローバルスタンダードはアメリカ人にとって都合のいいルールではない。人種や性別、宗教で国民を差別しないルールをアメリカを舞台として作り上げただけ。
アメリカ企業の能力主義も、能力以外で労働者を差別してはならないというグローバル空間のルールのこと。
アメリカがグローバル化を作り出しているのではない。少しでも豊かになりたいという一人ひとりの経済行為の集積が、グローバルな貨幣空間を自己増殖させていく。それと同時に、正義や公平を求める人々の抵抗によって、リベラルデモクラシーが拡張していく。グローバル化というのは、人々の欲望や正義感情によって、グローバル資本主義とリベラルデモクラシーが世界を覆っていく永久運動のことだ。アメリカという国の本質がグローバルなのだ。
これは学校の英語教育でも同じである。
英語を話す機会がないと学ぶ意味はない。
ということは、英語で話さなければいけない環境を作ればよいのだ。
具体的には、学校教育の場に留学生を増やす。
そうすれば何がおこるか。日本語が不自由な(または全く話せない)留学生がいることで、
生徒も先生も英語を使う機会が増える。
これにより英語を学ぶ意味が飛躍的に変わってくると考える。
日本の学校の多様性。いかがだろうか。